真田 彬プロフィール

九州を代表するグラフィックデザイナー

水彩画・水墨画・油彩・アクリル画家 真田 彬

1939年福岡県生、九州の画工の草分けである祖父・父二代に渡って師事。東京・パルテノンスタジオ7年、1967年デザインルームP&P設立、1996年㈲ピーアンドピー(法人組織)になる。

九州デザイン界の会長、㈳日本グラフィックデザイン協会理事を14年歴任し、業界の若手デザイナーの育成に協力いたしてきました。

諸要職を務めながら、1994年から水彩画・水墨画・油彩・アクリル画等の作品展を3回開催し、好評につき2010年8月24日から作品展、作品集出版。

真田 彬プロフィール

有限会社ピーアンドピー / 代表取締役会長 真田 彬 Akira Sanada
株式会社HaseRiver 会長

〒815-0081 福岡県福岡市南区那の川1丁目13-6 A&Sビル2F
TEL 92-531-4356 FAX 092-531-4350
E-mail pandp@fk9.so-net.ne.jp

[所属団体]
㈳日本グラフィックデザイナー協会(九州地域理事)、九州グラフィックデザイナーズクラブ(初代会長)、㈳福岡県美術協会会員、福岡文化連盟会員、ライオンズ国際協会・福岡ホストライオンズクラブ会員、福岡県中小企業経営者協会会員、九州賢人会議所理事

[略歴]
1939年福岡県生、九州の画工の草分けである祖父・父二代に渡って師事。東京・パルテノンスタジオ7年、1967年デザインルームP&P設立、1996年㈲ピーアンドピー(法人組織)になる。

[受賞歴・その他]
1985年九州グラフィックデザイン展会員賞、'87年九州グラフィックデザイン会員最高賞、'87年福岡県展会員賞、'89年九州イラストレーション理事長銀賞、'89年長崎県特産品包装デザインコンペ第1回大賞、特産品新作展優秀賞、奨励賞、'89年福岡県展会員協会賞、'94年全国土産品評会最優秀賞等受賞数々。
パッケージ:大型アミューズメント「オランダ村・ハウステンボス」商品開発多数、吉野堂、お菓子の香梅、ロイヤル食品、霧島食品、高千穂酒造、㈱まるなか本舗、㈱SHINKO等多数。
ユニバーシアード・青春アート展'94福岡審査員、九州デザインコンペティション'94審査員、福岡市健康づくりセンター「あいれふ」シンボルマーク・愛称審査委員長、日本文化デザイン会議'94福岡実行委員等。大野城「まどかぴあ」C・I計画とBASIC MANUAL監査。'96アクロス福岡・クリエイティブリレー展ポスター・マーク作成、コーディネーター、セミナー講師「感動デザイン」'97㈶おおのじょう緑のトラスト協会ロゴタイプ・C・I計画とBASIC MANUAL監査。田川・中小企業大学「デザインと中小企業」講師、TNC「九州ふるさとネットワーク」シンポジウム・福岡市ファッションデザイン研究会講師、下関デザイン協会=福岡市と企業とデザイン文化について講師、'98・2月建設省九州地方建設局広報コンテスト審査会、'98・12月九州通産局=デザイン開発指導連絡協議会、'99・1月九州地域産業活性化センター=九州デザインコンペ運営委員会出席等の講師等々。第56回福岡県美術展覧会(会員の部)奨励賞受賞。2003年度グッドデザイン賞・Gマーク受賞。[豊後・大山ひびきの郷]コミュニティ・アイデンティティ企画とデザイン。地方自治体活性化のための新しいCI戦略。(真田彬担当=事業プロデューサー)2003.12月㈳日本サインデザイン協会/コミュニティ・アイデンティティ計画[豊後・大山ひびきの郷] ●地区デザイン賞 ●パブリック部門入選。

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画家デザイナー/真田 彬(さなだ あきら)誕生ヒストリー

私の生い立ち 祖父の存在

私の家系は画家の血筋で、明治生まれの祖父は丸山応挙(日本画家)に師事し、祖父の三番目の弟子である私の父(2代目)、祖父の娘である私のお袋が結ばれ、私が三代目として昭和14年8月25日大牟田市で生まれた。祖父の野田万蔵は、今で言うスキャナーの版下・画工で有名で、石橋正二郎(ブリジストン)と縁故であり元々大阪の生まれであるが、BSの印刷工場・日本紙工(株)の製版部長、また世に知られた画工棟梁として招聘されていたのであり、言わば当時の草分け的存在であった。
当時の祖父の弟子である12~13人の画工や職人は、精巧な筆や技能を駆使し作品を書き上げていた。60~70畳もあろうかという大広間の真ん中に座してそれぞれ指示を与えていた。毎朝の祖母の仕事は囲炉裏の灰を掻いて平らにすることから始まり、ならされた灰は大きなキャンパスでもあった。紙がまだ貴重品だった時代、書き損じなどはもってのほか、そのため日に2回はキャンパスである灰をならす必要があったのである。祖父は、幼児だった私の幼稚な絵の中に何かを見出してくれていたのか、言葉もままならない時代から絵の手ほどきをしてくれたのだった。
そして、後の真田彬の礎となったと思われるエピソードの一つは、祖父の息抜きの時間の同行である。久留米の置屋から人力車でのお迎え、それに私は同乗したのだ、と言っても私が座るシートはお姉さんの膝の上、大人の女性の香に包まれ揺れる車上での心地よさと言ったら子供心にも気分爽快であったことは言うまでもない。そして祖父が遊んでいる間、私は置屋の女将の部屋で、4.5歳の私よりはるかに年上である10歳くらいのお姉さんと遊ばせておくのである。そんな遊びを経験している私が、女心のわかる「おませさん」になっていくのも致し方ないのである。
私は、この環境で4歳位から祖父に育てられ、呼吸する様に会得してきたのが「描く」という感性である。日本画・水墨・水彩・油絵の基本を吸収できたことは、何よりも大きな財産と言えるだろう。
被写体をまるで写真のように描きとる技法、一本の線で表現する技法、あるいは画材や色味を変える手法など、そこに当代一流のデザイナーが居てくれる訳で、感覚はまさに身体で覚えたと言うことだろう。
小学校の4~5年生位から「絵画き」の才を発揮できる様になっていた。5年生の時、学校代表として筑後川スケッチ大会参加メンバーに選ばれ、大賞を受賞。中学では久留米が生んだ世界的に著名な坂本繁二郎の一番弟子の伊藤静男に師事し、さらには日展会員の鶴甫(つるはじめ)に師事した。みっちり4年間一流の画法を学んだのである。高校在学時には初の挑戦で日本文化書道連盟七段を取得する。そして画家として稼ぐ事に苦労していた父は「これからの時代は絵を描くだけではダメだ。お客様が何を欲しているかを棝み表現していく必要が有る。お前は俺と違って、新しい物を見つけ創り出す才がある。無から有を生める。」とアドバイスをくれた。明善高等学校卒業後の進路は高校の先生に促され、東京芸術大学を受験した結果、実技は合格し筆記で落とされた。私立多摩美術大学は合格したのだが、戦後当時、絵や版下は売れず仕事が余り無く、その為家庭は貧乏で進学はお金が掛かるので断念をしたのだった。

デザイナーとしての出発・東京へ

進学を諦めた私は、東京の知人の紹介で栗山デザインへ入門することにした。約1年3ヶ月働いたが毎日掃除と準備と後片付けばかりでデザインの勉強ができず楽しくない。そこで退社をし、新聞求人欄で見つけた「東京パルテノンスタジオ」を受けた結果、9人中私だけ採用になった。社長より「真田君カタログのデザインは出来るかね?」と質問され「はい、出来ます」と即答した。「ところでウチの会社への志望動機は?」「はい、デザインの仕事が出来ることです!」
しかし本当の理由は…「社員さんが美人ばかりなのでどうしても入りたいな…」これが本音だった。
1958年(昭和33年)20歳の私は、日本ビクター(株)の子会社「東京パルテノンスタジオ株式会社」に入社した。レコードジャケット、デパート等の流通からアパレル、音楽業界と時代の最先端をリードするものが多かった。入社4ヶ月目に東芝のトランジスタ工場に行く機会が訪れた。私はその製法ライン工程を見学しながら心を鷲掴みされ、目が離せなかった。一つ一つのパーツが分業で製造され、順序よく組み立てられていく。分業システムが非常に効率よく機能していた。(これは今の制作室でも使えるのじゃないか)かつての祖父の工房を思い出していた。溝引きで文字を描く者がいれば、ベタ塗り専門がいる。それぞれの得意分野を活かしてチームを作れば、仕事の効率アップが計れる筈だ。早速、社長に進言しチーム制が採用された。3チームで競走である。私は一番下手なチームに入り、指導しながら仕事をこなす。技術が向上することは間違いない。
そしてそこに奇跡の様な出会い、思いがけない幸運が待っていたのである。奇跡の一つは、フランク・シナトラとの出会いである。アメリカを代表するショービジネスの第一人者で、もはや説明する必要もないだろう。フランク・シナトラはワーナーブラザーズと共同出資で独自のレコードレーベル「リプリーズ」を1960年に立ち上げた。日本ビクターの提携関係にあった為、プロモーションを兼ねて訪日することになった。滞在はわずか4日間。その1日を費やして日本語バージョンのジャケットデザインを制作・検討するというのだ。私はフランク・シナトラ本人を前にしてロゴをサッと描いて見せた。出来上がりを確認してもらう為本人に会うとフランク・シナトラはグローブの様な大きな手で握手を求め、にっこりと笑ったその顔を今でも鮮明に覚えている。大人の男とはこんなにすごいのか。圧倒的な存在感、オーラに包まれた感動的な時間だった。
パルテノンスタジオに勤務し約7年目25歳の時、父の体調が悪化し久留米に帰って来てくれとの事で帰郷し1年父と一緒に仕事をした。ところが田舎での仕事は私に合わず福岡へ出て行く。これが「真田デザイン事務所」のスタートである。

真田彬デザイン事務所「P&P」設立

1966年(昭和41年)私は28歳になっていた。街にはパンタロンルックに身を包んだ女性が闊歩し、いざなぎ景気に沸いた人々がこぞって3Cと呼ばれた、車・カラーテレビ・クーラーを手に入れようと躍起になっていた時代である。この頃より商品パッケージの出来栄えが商品ヒットの要因になっていったのである。
来る仕事を拒んでいられる状態でなかったが、自分らしい個性が発揮できる様な仕事を選ぶ様にした。アイスクリームや菓子パンのフィルムパッケージをよく頼まれた。義理の伯父が包装資材メーカーの役員をしていた事もあり、この頃からパッケージデザインに着手する。叔父の会社より紹介で始めたパッケージデザインだが、次から次へと紹介の輪が広がったことはラッキーであった。林製菓もその一つで中国菓子麻花兒をアレンジした「まふぁーる」で一躍有名になった会社であるが、地元では「よりより」として愛されている。この中国菓子は全国の中華料理店にお土産として売られている。長崎県の水産・果物・お菓子の土産品を10種類以上もデザインして好評に売れていく様は何者にも変えがたい喜びであった。

お菓子・焼酎を筆頭にヒット商品誕生

1986年(昭和61年)までの20年間、全国のお茶屋さんの既製品の袋の基本的デザインを作成して大ヒットした。全国のお茶屋さんの産地に行き、当時のスーパーや量販店に売り出す時お茶屋のブランドマークのCI計画等を30社位デザインした。このメーカーは全国のお茶屋の40%を占めていた。
1995年(平成7年)焼酎ブーム到来。このブームに乗り、特に南九州の約60%は私の事務所が企画デザイン、凸版印刷と提携し連日焼酎のデザインをしていた。恐らく全国のデザイナーの中で一番ではなかっただろうか。
私の様に時代の要求に合わせ、お茶、焼酎業界を理解しデザインしたデザイナーは全国にいないのではと自負いたします。
そして1996年(平成8年)有限会社P&Pとして新たな出発をする。この頃、創業55年もの間に色んなお菓子業界、漬物、お土産品等のユーザーから頼まれ、様々な商品のデザインをしていた。ダントツに売上を伸ばしていった代表作は熊本の「誉の陣太鼓」「長崎のたらみのフルーツゼリー」である。この2社の社長は将来を見据え、デザイン料、販促費などの先行投資への必要性を理解され、この事は作品がヒットした要因として大きいと言える。その後2社のような企画・デザインをしてくれと言われた方は居たが、価値観の合うクライアントとしか私の感性は表現ができないこともあり、なかなか簡単にはヒット商品は出ないのである。食品が永続して売れて行くのは、外観のデザイン性に合わせ中身の美味しさが重要である。
絵を描き、完成した後の酒の席で色んな方々との楽しい時間が私を育て、デザイナーになってからは、いかに早くデザインを描くかが私の目標になり、「遊びが仕事」作品作りの時間短縮をする事で、充電時間を作ることが習慣になっていった。

画家Akira

九州全県・沖縄各地の旅行は私にとってデザイン誕生の近道である。お菓子屋さん観光名所を訪れては、素材を見つけカメラに納める。野菜・果物・魚など一旦その場でスケッチをし、イメージを焼き付けておく。その後持ち帰り、デザインに挿入したり絵として完成させたりする。絵とデザインは常にリンクしているのである。また、生き物の場合は、生態系を知ることがとても重要であり、川に潜りエビと一緒に泳ぎ、山や森では枝に止まっている鳥、飛んでいる鳥を観察するのである。そうすることで、生きている様が絵となっていく。そして一番難しいのが人物デッサン、かなりのデッサン力が必要になる。そこで飲みの席で可愛い女性を見つけるとささっと描く、これがいい練習になるのである。感性と感覚が同時に成長することで新しい発想が生まれヒットするのである。
たまには、妻と中国、韓国、アメリカ、ヨーロッパへと研修旅行に出かけ、日本ではお目にかかれないものを捉え、感性が進化していく実感、これがまた楽しいのである。依頼されるデザインの要望やリクエストのおかげで私は同時に絵画作品も残すことができました。

あとがき

このような人生の集大成として、私の絵画を一堂に集め、博多阪急10周年記念イベント(2021年3月3日~8日)「真田彬絵画展」を催すことが出来ました。
このことは、福岡ライオンズでご縁があった、長谷川ますみさん始めたくさんの皆様のおかげだと心より感謝申し上げます。
私と同じ面白い発想や感覚を音楽で発揮してこられた長谷川さんですが、この絵画展より私のマネージャーとしてサポートしてもらっています。そして「真田 彬先生のデザインや絵画、これまでの全作品を皆さんにご覧になって頂きお家やお店に飾ってもらいましょう」という提案で企画をして頂きました。「Akira's Gallery」の誕生です。リアルギャラリーサロンは、P&P事務所の1階、そしてwebは、このホームページでご覧になって頂けます。
いろいろな楽しいエピソードも交えてお楽しみ下さい。そして「Akira's Gallery」も私同様に可愛がって頂ますようお願い致します。
さて、そんな私も今日で満82歳になりました。後何年生きるか知りませんが、絵やデザインは生涯現役!自分自身の好きだと思う絵を描き続け、楽しんで参りたいと思います。これまで応援してくださったたくさんの皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。今後ともAkiraのことを、どうぞよろしくお願い致します。

真田 彬 デザイン事例

真田彬のデザイン事例

真田 彬 インタビュー(RKBテレビ『元気by福岡』)